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横浜の聴き方

藤枝 好

キャロル

 【横浜発1月22日】1969年、ラジオを聴いていたらウッドベースのイントロから始まる「夜が明けたら」が流れてきた。浅川マキのデビュー曲である。もっぱらビートルズなどのポップスを聴いていた中学生には、彼女の歌はとても無愛想で重い感じがした。それでも、結構ヒットしたのだろう。ラジオから流れるたびに「またこの曲か」と思った記憶がある。

 特にファンというわけではなかったが、高校に入ってから彼女のセカンドアルバムを買った。A面トップの「少年」という曲が好きで、よくハーモニカで吹いていた。だれかに貸していたのを返してもらい、教室でそのLPを持って帰り、支度をしていたら、突然、同級生の女の子から「貸してくれない?」といわれた。とてもおとなしくて、男子とは話もしない子だったので、びっくりした。意外な子がファンなのだな、と思った。もちろん気持ちよく貸してあげた。

 浅川マキは寺山修司のプロデュースでデビューした。「アングラ」という言葉とともに新宿が独特の磁力を放っていた時期である。彼女は理屈っぽい当時の大学生の強い支持を得ていたという印象がある(昔の大学生は理屈っぽかったのだ)。理屈っぽい高校生だった私は、憧憬を抱きながら、新宿を、遠く横浜から眺めていた。

 矢作俊彦の「OUT OF BORDER」というエッセイは、こんな書き出しで始まる。

 「この町を出て行くんだよ」と、彼は言った。(中略)

 「昔、そんな歌があったぜ」と、私は隣の大男に言った。

 「夜が明けたら、いちばん早い汽車に乗って、この町を出て行くってのさ」

 「あの女が歌った町は新宿だ。定置網にひっかかった鰯みたいな百姓女が新宿のドブを出て行くって歌だ。―一緒にしないでくれ」  大男は不快そうに唇を曲げた。

 このエッセイは『複雑な彼女と単純な場所』(新潮文庫)に収められている。1990年に発行された本だが、つい最近読んで、(石川県出身の)浅川マキに対するこの痛烈な批判にちょっと驚いた。彼女はあまり批判されたことがないと思う。矢作俊彦は1950年、横浜生まれ。このエッセイ集には「私たちは、一般的に中区以外の場所を横浜とは呼んでいなかった」というフレーズなど、浜っ子の強烈なプライドが満載されている。

 <追記>小松左京に「夜が明けたら」という短編がある。浅川マキとはまったく関係がないが、救いのなさというか、暗いムードは共通している。良い短編である。同題のハルキ文庫で読める。(文中敬称略)(04・01・18)