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03/07/06 【横浜百景一覧】
山口昭生麦・花月園・総持寺私が生まれた鶴見区生麦は、国道と旧道に挟まれた場所であった。本来この地区は、海であったはず。それは、丘陵地帯からいくつかの貝塚が発見されていることからも推察されよう。 花月園や総持寺のある丘陵地帯の下は、何本かの線路が走っていた。貨物線・東海道線・横須賀線・省線(桜木町行き)、そして少し離れて、私鉄京浜急行線。これに平行して、国道が走っていた。 昭和11〔1936〕年のことである〔したがって、私は現在67歳ということになる〕。この年、東京では青年将校たちが「二・二六事件」を起こしている。何名かの政府要人を殺害し、世の中を暗くしていった。もとより、私は知るよしもない。 父は、設立まもない日産自動車の技術屋だった。兄が2人、私は末っ子、三男坊である。国民学校〔今の小学校〕に入学するまでの記憶は少ないが、近所の「田中のマーチャン」や「木村のテッチャン」、「佐々木のジュンコチャン」と毎日遊んでいた。季節によって遊びも異なるが、コマ回しや竹トンボやメンコ遊びが中心だった。祖父に買ってもらったコリント・ゲームが、私の自慢の品だった。現代のゲーム機のようなものだった。 街にやって来る紙芝居も、だんだんと軍人さんが登場してくるようになり、お菓子が少なくなっていた。 日の丸の旗を持って近所のオジさんかやお兄さんの出征を見送る回数が多くなっていった。2人の兄が唄〔うた〕う歌も、童謡から軍歌に変化していき、ぼくたちも、その変化をなんとなく、感じるようになった。 昭和16〔1941〕年の夏。 ぼくたち家族は、父の故郷である九州・大分に旅行した。いったん、東京駅に出て特急列車「富士号」に乗った。一等車は白い線が引かれ、展望車になっており、二等車は青い線が引かれ、ぼくたちは、赤い線の三等車に乗った。父が持参した何枚かの板をボックス間に敷き、その上に大きなタオルを敷いて〈お座敷列車〉を作ってくれたと記憶している。2人の兄の友人たちが、ぼくたちの乗った特急列車を総持寺の踏切のところで、旗を振って見送ってくれたのも憶〔おぼ〕えている。そのころの特急列車に乗るということは、たぶん、希少価値があったのだと思う。大分・国東半島に遊び、帰る時に、別府温泉に宿泊した。旅館には、たくさんの海軍さんがいて、別府湾には多数の軍艦が停泊しているのを見た。後に長兄から、それが日本の連合艦隊だと教えられた。 それから間もなくして、日本は開戦することになる。 さて、そのころになると、ぼくたちの遊ぶ範囲が広がっていった。連れ立って三ツ池に行ったり、花月園の秘密の入り口から無料入園したり、杉山神社に行ったり、行動半径が広がっていった。 このころから〈イロハ〉や〈あいうえお〉の勉強が始まっていた。 父から「しっかり勉強しないと、陸軍幼年学校や海軍兵学校に行かれないぞ」と、いわれた。2人の兄が描く飛行機が、まぶしく感じられた。大人たちが着ている洋服が、だんだんとカーキ色に変化し、長兄がゲートルを巻く回数が増えていった。 間もなく、お正月でおもちが食べられると思い始めたころ――日本は戦争に突入した。昭和16〔1941〕年12月8日のことである。 その日は、どこの家も日の丸を出し、生麦の街は、日の丸一色に染まっていた。 鶴見区生麦町の月は美しく、なぜか知らぬが、感動的だった。ことのほか美しい月を身ながら、長兄と次兄と3人で「がんばるぞ!」と、こぶしを夜空に向かって突き上げたシーンを、昨夜のことのように憶えている。 私、6歳。長兄14歳、次兄10歳だった。 |
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