ヨコハマチャンネル横浜から日本、世界を考える
 
横浜百景〔2〕

山口昭

横浜市立生麦国民学校

 先日電話帳で調べて、現在の生麦小学校に電話をしてみた。たいへん親切な先生が現在の状況を教えてくれた。校舎のこと、プールの所在地、グランドのこと、校門の位置などである。考えてみれば、今から60年前のことだから、大変化しているのは、当たり前である。それにしても、驚かされてしまった。

 私が入学したのは、昭和18〔1943〕年だが、もう、この年は連合艦隊のトップである山本五十六さんが戦死したり、サイパン島がアメリカ軍に攻撃されたりしている状況で、戦争が敗北に向かいつつあるころだった。先輩が航空隊に入り、空から母校を訪ねるということで、全校生でグランドに人垣をつくり、歓迎した記憶がある。赤トンボのような飛行機が、グランドの上を三回低空飛行して、最後に筒を落として帰った。校長先生が、筒の中のメッセージを読みましたが、内容は憶えていません。校庭にカンナの花が咲いていましたから、二学期のころだと思われる。

 二学期から級長〔クラス委員〕に指名され、何かと担任である木村先生を手助けしたものだった。現在、私が住んでいる青葉区のあざみ野という街には、二つの小学校があるが、先日その一つを訪れた。校舎も体育館もプールも立派なもので、小さな丘の上にあるその小学校の環境の良さには驚かされた。なぜか知らないが、<トンボ鉛筆> <王様クレヨン> <セルロイドの下敷き>などを思い出し、あざみ野小学校の景色が、生麦国民学校のそれに重なったのには驚いた。ボケが始まったのだろうか…。

 しかし、楽しい新入生生活も長くは続かなかった。配給のお米も少なくなり、一般家庭から鉄製の金属品を供出したり、近所のオバさんたちが動員され、防火訓練をしたりし始めた。明治維新以来、日清戦争・日露戦争と<敗北>を知らなかった日本が、どす黒い谷間に向かって進んで行ったのだった。それでも、ぼくらは<遊び>だけは忘れなかった。

 <戦争ごっこ>という遊びを開発したのである。二手に分かれ、両方に大将をつくり、三尺程度〔※約1b〕の棒を振り回し、互いに闘ったのだった。日曜日には、生麦発の市電に乗って、伊勢佐木町に行き、「野沢屋デパート」〔※現在の横浜松坂屋〕の屋上で遊んだ。母や兄に同行するときは、まだ「支那そば」〔※〕も食べられました。煮干の香りがするスープを思い出す。海へつりにも行った。「国道」という駅から、臨港線とぼくたちが呼んでいた電車に乗り、ハゼを獲っていた。

 このころ、長兄が隣の町、川崎に出かけ、<レビュー>を見て帰ってきたのだが、父にバレてしまい、竹刀で打たれた。<不思議な時代>になっていた。紙芝居のアメもなくなり、塩で煮た大豆に変わっていった。このころだろうか、<外食券食堂>という店が出現したのは。チケットを持って、その食堂に行くと、ご飯と何品かのおかずを食べられた。次兄の修学旅行が中止になり、悲しんでいる光景もなぜか憶えている。父の故郷、九州・大分から、いろいろな食べ物が送られてくるようになった。

 映画館に警察官が立ち寄ってチェックが行われ始め、映画の種類によっては、学生が入場できなくなったり、学校には、軍人が校長室の隣に在室したりするようになった。みんなは「憲兵だ」といっていたが、今、考えると、当時の日本にそんな余裕があるわけがなく、たぶん、在郷軍人だったと思う。が、いずれにしても、娯楽の場にも、教育の場にも、いやな空気が流れ始めていた。

 このころ、長兄から教えられた歌に、こんなのがあった。

戦いすんで、日が暮れて
探しにもどる心では
どうぞ生きてていてくれよ
ものなといえと願うたに

 その昔、日本人であれば、だれもが知っている「戦友」という軍歌の一節です。この歌は、十何番まで続く軍歌で、「ここは、お国の何百里」で始まる歌だ。

 この歌が、なぜか現在の私の心の心境にピタリとくる。大学を卒業して、今日まで、ずい分と働いてきた。サラリーマン生活、会社経営、そして倒産。私にとっての「戦い」はまだ続いているが、明るい未来を信じて、「戦い」を続けようと思っている。日本は、軍隊による戦争は放棄した。しかし、「経済戦争」は、まだ続いているのだ。