ヨコハマチャンネル横浜から日本、世界を考える
 
横浜百景〔3〕

山口昭

ポンプ一〇〇より用心一つ

 ポンプという言葉は、今では耳慣れないが、小型人力消防車と思ってもらえればいい。この時代になると、学校でいろいろなフレーズを教えられた。

 「マッチ一本、火事のもと」
 「欲しがりません、勝つ迄〔まで〕は」

 だれがつくったフレーズかわからないが、今でいえば、広告コピーのようなものだろう。「倹約」「節約」の時代に突入した。すべての物が切符制度になり、配給される切符がないと、物が買えなくなった。物の数量も制限され、たとえば、マッチは一人一日三本と決められ、家族の人数に応じて求めるのである。タバコは成人男子一週間に三十本、酒は付きに一家庭四合〔※一合は約180ml〕、ビール二本という具合だ。衣料品も野菜も米も水産物も、すべて切符がなければだめ。水産物はニシン、ホッケ、スケソウダラと決められていた。砂糖はもう、なくなっていた。世の中から美味なものが消えてしまったことになる。母が前から蓄えていた小豆や砂糖でつくってくれた「志る粉」の味が、今でも懐かしく思い出される。当然ながら、工業製品の原料もすべて不足してきた。学校の授業中に近くの松林に行き、「松ボックリ」を集めたこともある。油をそこから採ると教えられた。

 アメリカ軍の飛行機が、京浜工業地帯を偵察し始めたのも、このころ。それでも、新聞には「敗北」の二文字は書かれなかった。

 倹約の神様、上杉鷹山〔ようざん、※注参照〕でも、打つ手がなかったろう。

 少し脱線するが、この上杉鷹山なる人物は、小学校の高学年になると、教科書に出てきたのだが、残念ながら、私は学んでいない。戦争に負けてから、教科書から消えてしまったのである。

 この人物が、クローズアップされたのは、第35代米国大統領のケネディ〔※注参照〕の発言からである。ワシントンでの日本人記者団とのインタビューで、記者がこう質問した。
 「大統領は、日本人政治家でだれを尊敬していますか」
 すると、ケネディ大統領は「上杉鷹山です」と答えたという。
 残念ながら、日本人記者のほとんどが、これがだれなのか、知らなかったそうだ。
 「それは、だれですか」と質問する勇気のある記者はいなく、インタビューが終わってから、だれかが調べてみたら、200年前の米沢藩〔※今の山形県〕主とわかったという。戦後教育を受けた若い日本人記者なら、いたし方のないことなのだが。ケネディ大統領がいつ、どこで、上杉鷹山を知ったのか、不思議な話だ。

 先日、偶然にもNHKの番組で、米沢市民の人たちが垣根にしている植物を、天ぷらやおひたしにして食べているシーンを見た。その垣根を推進したのが上杉鷹山で、現代でいえば、「財政改革」のリーダーというべきだろう。

 私も若かったころとは違って、今の生活は質素をモットーにしているが、それでも「一汁一菜」というわけにはいかない。あの時代〔昭和19(1944)年当時〕を考えれば、何と豊かな食生活なのかと思う。ついでながら、上杉鷹山のことを少し調べてみたら、この人物を紹介している内村鑑三〔※注参照〕著の「日本及び日本人」が英語・フランス語・ドイツ語の各国語に訳されて、出版されていた。ケネディ大統領はきっと、この本を読んでいたのだろう。

 小泉総理も、松沢〔神奈川県〕知事も、中田〔横浜〕市長も、ぜひ読んで、学んでほしいものだ。

 私は、モノを書くときは、早朝にしているが、前庭の紫陽花〔アジサイ〕が梅雨の季節の情感をプレゼントしてくれている。
 今回は少し脱線したが、次回は「私の疎開時代」をお届けしようと思う。

注:
※ ケネディ 1917−63 在任1961−63 1960年、前時代の閉塞感を打ち破る「ニュー・フロンティア」を掲げる民主党候補として、大統領選に出馬し、当選。国家への献身を呼びかけた61年の就任演説は有名。63年、テキサス州ダラスで、凶弾に倒れた。
※ 上杉鷹山 1751−1822 上杉治憲〔はるのり〕。江戸中期の米沢藩主。藩政を建て直すために取り組んだ明和、安永、寛政の改革が有名。
※ 内村鑑三 1861−1930 明治・大正期のキリスト教伝道者。「教会のない者の教会」として「無教会」主義を提唱。著書はほかに「余は如何にして基督信徒となりし乎」〔1885〕、「後世への最大遺物」〔1897〕
〔文責=ヨコチャン編集長〕