ヨコハマチャンネル横浜から日本、世界を考える
 
横浜百景〔4〕

山口昭

疎開のこと

 「疎開」という言葉が死語化しているが、古い年代の人には、なつかしさとともに、悲しい響きがあるのではないだろうか。

 昭和20〔1945〕年に入ると、日本の主要工業地帯と主要都市が、アメリカ軍の攻撃目標となった。

 学校に行っても、お昼近くになると、「警戒警報」のサイレンが鳴り、一斉下校となる。だいたいが夜の空襲のための調査飛行なのだが、下校した。このころになると、学校も、各家庭も窓ガラスは破片防止のために、紙で貼られるようになった。夕方になると、夜の空襲のために、カンテラやローソクの準備をした。一斉に電気を消すためだ。カンテラやローソクの灯りが外に漏れぬように、黒いカーテンを引き、空襲に控えたのだ。こんな生活も、長くは続かなかった。

 「疎開制度」が実施された。

 この制度は、二種類あって、一つは「縁故疎開」と称され、親類・知人を頼って引っ越した。もう一つは「集団疎開」と称され、クラスメートといっしょに地方のお寺や集会所に引っ越したのだ。この時代になると、地方でも食糧が少なく、先生も生徒も苦労したはず。幸いにも、私は母と次兄〔二中生=現在の翠嵐高校・神奈川区〕といっしょに父の知人を頼って、信州小諸に行った。父と長兄は残った。戦争のことを除けば、小諸はすばらしい街だった。小諸城から眺めた浅間山や千曲川の流れは、今でも目に焼きついている。しばらく、静かな時間が流れた。しかし、5月29日に横浜大空襲があった。父も長兄も連絡がなく、母と次兄と私は、不安の日々が続き、とうとう、母が生麦に戻ることになり、信越本線の小諸駅まで見送りに行った。

 母は涙一つ見せずに、  「父と長兄は必ず生きています。心配するな。勉強を一所懸命しなさい」といって、印鑑と銀行通帳と国債〔結局、戦争に負けて価値がなくなった〕を次兄に渡し、人であふれる列車に乗り込んだ。なぜか、次兄と駅前の坂を登りながら、泣けてきた。

 「泣くな。男だろ」という次兄の目にも、涙が光っていた。信州は、さわやかな風が流れ、空は澄み切った青一色だった。

 数日後、母は無事に帰ってきた。父も長兄も生きていた。この5月の大空襲で、横浜は灰燼〔かいじん〕と化した。死者も多数出た。

 このころになると、国民のだれもが<敗北>を意識するようになっていた。

 父の勤務先、日産自動車の歯車工場が、県央の<厚木>に疎開工場として完成し、父は配置転換となった。そんなことで、疎開先の信州小諸を引き払い、母と次兄と私は、厚木に移転した。次兄は厚木中学〔現在の厚木高校〕に、私は厚木町立厚木国民学校に転校した。丹沢山塊の山々と相模川に挟まれた田園都市は、空襲もなく、いまだ静かな街だった。

 結局、この地で昭和20年8月15日〔終戦〕を迎えることとなった。この地から、横浜に行くには、当時、一時間以上を要した。小田急線で本厚木から海老名に出て、ここで相模鉄道に乗り換え、横浜駅に至ったのである。現在のような電車ではなく、ボロボロ電車が走っていた。

 戦後の教育改革で六・三制が実施され、国民学校は「小学校」になり、旧制中学は「高等学校」になり、新たに新制中学校が設置され、9年間の義務教育制度が実施された。新しい教科書ができるまで、複雑な教科書となった。

 結局、私はこの地で小学校を卒業し、新制中学に入り、三年で卒業した。

 高等学校への進学に際し、男子では私一人が希望ケ丘高校〔旭区〕に、女子では二名が平沼高校〔西区〕に進学することになった。

 再び横浜市民となったわけだが、両親と長兄、次兄は厚木市民だった。相模鉄道の希望ヶ丘駅から学校までは、山林が続き、急な坂を登りつめたところの中華そば店と、校門近くの、文具店とパン屋さんを兼ねたお店の二軒しかなく、淋しい限りだった。

 昭和27〔1952〕年のことである。

 教科書は、西横浜から歩き、藤棚の第七有隣堂で求めた。横浜駅西口は石炭と砂利の置き場で淋しく、東口に郵便局があり、その隣の「萬珍楼」のサンマーメンが楽しみの一つだった。

 次回から、高校生活と発展する横浜について、書きたい。