![]() ![]() |
|
03/08/10 【横浜百景一覧】
山口昭終戦記念日終戦となった昭和20年8月15日、私は国民学校〔小学校〕の三年生だった。前日まで、夏休みのラジオ体操に参加していた。広島や長崎に特殊爆弾〔原子爆弾〕が投下され、日本は戦争には勝てないのではないかと、父が話していた。三年生の私にも、それは悲しく感じられた。そのころには、米飯が食べられず、スイトン〔野菜汁に小麦粉の団子が入ったもの〕を食べていた。私は今でも、8月15日になると、そのスイトンをつくり、食べている。家族には好評だが、当時は決して、美味のものではなかった。今は、すべての材料がよく、ダシ汁も美味だ。 終戦の日は、天気快晴だった。蝉〔セミ〕の鳴き声が一段と激しくなったと、記憶している。午後いつものように、友だちとプールに行こうと思っていたが、母から止められた。大人たちのショックは、それは激しいものだった。日本軍の戦闘機が低空飛行して、空からビラがまかれていた。それには、戦争続行が訴えられていた。しかし、そんな事柄も、二日たつと静かになり、夜は電気を自由に使えるようになり、明るい街になった。 それから一か月経過すると、GI〔進駐軍兵士〕が、ジープに乗って現れ、私は初めて、米国人を見たのである。GIがくれるガムは、甘くいい香りがした。友だちと、キャンデーと思って食べてしまったが、翌日からは、それを捨てるように注意された。ある時は、「日の丸」のついたたばこをもらった。今、考えると、それは「ラッキーストライク」なのだが、父に喜んでもらえると思って渡すと、悲しそうな顔をして、ゴミ箱に入れてしまい、「二度ともらうな」といわれ、GIプレゼントはやめることにした。 なぜか、その年の夏休みは早く終わり、宿題を整理して、二学期を迎えた。最初に、先生から級長を解かれ、委員を指名された。教科書の訂正が多くあり、その作業がたいへんだった。「修身」という時間がなくなったのも、それから間もなくだった。 授業中に、運動場にGIが日本の女の人をジープに乗せて入ってきたりして、校長先生がその都度、運動場に出て、「No!No!」と、手を振り振り汗をかいている光景が思い出される。服装もカーキ色の国民服やモンペ姿が少しずつ消え、カラフルになりつつ、変化していった。 日本の兵隊さんも帰ってきたが、日の丸も振らず、淋しく帰ってきた。終戦から50有余年――。 今年は長い梅雨が続き、太陽の光がなつかしくなった。小学三年生だった私も、67歳になった。きょうの横浜の街々を眺めると、その間の、市民の努力が推察される。この驚くべき、汗と涙の結晶を維持しなくてはなるまい。横浜の花火大会を郊外、青葉区の高台から眺めながら、息子たち、そして孫たちの将来を念じざるを得なかった。 「公」と「私」。教育制度、経済改革、少子高齢化問題など、難問が多数あるが、その解決に努力したい。「老人力」で何ができるかは疑問だが、私はそれを求めていきたい。 子どもたちの事件が、いくつか報道されているが、私が出かけるキャンプ地での子どもたちの顔は明るく、輝いている。親子でのキャンプ生活を見ていると、マスコミの不快なニュースは忘れてしまう。キャンプ・ファイアを囲んで語り合い、ふと、夜空を眺めると、星が輝いている。今年も間もなく、奥道志川に出かけていきたい。横浜の水源地は、清流が流れている。 ◆ ◆ ◆ ◆ あなたにとっての「終戦記念日」は、どんなものでしょうか。若い人たちには、具体的に理解しがたいでしょう。いい企画があります。「横浜の疎開と空襲」という写真展が8月17日まで、伊勢佐木町〔中区〕の有隣堂ギャラリーで開かれています。入場無料ですから、おすすめします。 |
||||