ヨコハマチャンネル横浜から日本、世界を考える
 
横浜百景〔7〕

山口昭

父と母のこと

 「天皇(昭和天皇)が死ぬまで、自分はがんばる」といっていた父が、平成に変わると、死去した。3月のことである。87歳。

 母は、平成14(2002)年に死去した。94歳。

 父は大分で生まれ、母は東京で生まれた。しかし、育児に追われたのは、鶴見区であり、自分たちの家を建てたのは、港北の高台であった。老後は、長男の家に同居し、瀬谷区が最後の地となった。3人の息子とそれぞれの嫁と6人の孫を残して、彼岸に旅立った。

 父は、厳格な人だった。あまり笑顔を見たことがない。しかし、酒が入ると、明るい人になった。正月などは、父と私たち兄弟で飲み始めると、2升〔3.6g〕は軽く飲んだ。私たちが成長して、将棋や囲碁をするようになると、4人でリーグ戦をしたものだ。不思議なことに、将棋も囲碁も優勝するのは、常に末っ子の私だった。いつのころだったか、覚えていないが、たぶん、私の高校時代だったと思う。久しぶりに会社から定時で帰宅して、夕飯前に将棋を指した。もちろん、私の序盤、中盤は、父を上回っていた。台所で夕飯の支度が忙しかったのだろう。母から声をかけられ、私と父の茶を取りに行った。普段あまり笑顔のない父の顔は、なぜか、目が笑っていた。会社でいいことでもあったのだろうかなと思いつつ、将棋を続けた。しかし、それから数分して、敵の父の王将がないことに気づいた。私が茶を取りに行っている間に、ポケットに忍ばせていたのだ。

 敵の王将がなければ、勝敗が決まらない。思わず、笑ってしまった。父が死んで14年経〔た〕って、今でもそのシーンが懐かしく、思い出される。子どものような父の顔が懐かしい。

 母は江戸っ子であった。

 その言葉には、現在では死語になってしまっているものが、いくつかあった。例えば、「ご不浄」〔便所〕である。生涯「トイレ」とか「お便所」とかとは、いわなかった。また、到来物」という言葉も、よく使っていた。「贈り物」「プレゼント」とかという言葉は聞かなかった。

 それから、私が中学生のころ、小学校六年生の担任の先生に成績表を届けさせた。中学校の3年間、私は実行した。さらに、高校生になると、中学三年時の先生に対して、それを実行させた。さすがに大学に入ると、その習慣はゆるされた。父は給与袋や賞与袋を、封を切らずに持ち帰ったが、母は息子たちにもそれを実行させた。従って、私も妻に対し、それを実行していたが、残念ながら、私の後半のサラリーマン生活は、銀行振り込み制となって、その習慣も中止せざるを得なくなった。

 いずれにしても、父母ともに、教育は厳しかった。

 机上でこの原稿を書いている横の棚に、両親から入学祝いに贈られた三省堂の古くなったコンサイスと広辞林がある。今でも私は使用している。明治・大正・昭和・平成の激動を生きた父。それに母。

 男4人〔父・長兄・次兄・私〕の洗い物だけでも、たいへんだったろう。初めて洗濯機が運び込まれた時の母の顔が目に浮かぶ。

 久しぶりに窓ガラスを開けて、網戸だけで風を通し、仕事をしているが、さすがに明け方〔午前4時〕の風は涼しい。台風が去った後、早朝の空気を楽しんでいる。青葉区のこの辺りでは、小鳥がたくさんいて、そろそろ活動を始めるころだろう。

 今朝は「ラジオ体操」をやってみようと思っている。

 「ラジオ体操」のあの音楽も何度か変わった。やはり、時代の変化に合わせて、変えたのだろう。NHKに行って調べてみるのと、おもしろいだろう。

 元気を出して、夏を越そう。