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03/08/24 【横浜百景一覧】
山口昭海水浴・川遊び・プール「泳ぐ」ことをやめて、何年になるだろうか。海水パンツのありかもわからない。夏の風物詩である海水浴風景も、グッタリした動物園の白熊や猿の情景も見られない。この長い雨で、「夏」がどこかに飛んでいってしまった。 私の子ども時代は、夏になると、両親と男兄弟3人で、塩のきいたにぎり飯を持って、京浜急行の「富岡」や、市電に乗って「本牧」へ行ったものである。海の家での「おでん」や「かき氷」が、なつかしい。6尺の赤いフンドシがうまく巻けず、兄に手伝ってもらった。毎週出かけるので、夏の終わりには、目だけ光っている「クロンボ」〔差別用語ではない〕になっていた。今は「富岡」も「本牧」も工業団地になってしまっている。 川遊びは、相模川でした。 こちらは、仲間と一緒だった。革ベルトをつけ、手ぬぐいでフンドシを作り上げ、泳いだものだ。海と違って、浮力が少ないので、最初は戸惑ったものだ。下流に浅瀬があるところを選び、安全対策もしっかりして遊んだ。 プール遊びは、慊焉〔けんえん〕たるものがあった。今のプールと違って、衛生面に問題があった。水の中に入れる薬品がなんであるのか、わからないが、目が真っ赤になってしまう。プールの後で、真水で、目を洗うのを忘れると、翌日まで、ウサギの目のようになってしまう。夏の期間20日程度、泳いでいた。勉強はしないから、夏休みの最後は、たいへんだった。工作・絵・日記・作文などで、多忙を極めたものだ。 しかし、こんな遊びも、高等学校に入ると、変わっていった。大学への受験勉強を意識するようになったからだ。 それでも、スケジュールをやりくりして、中津川渓谷や丹沢山にキャンプに出かけた。仲間とキャンプ・ファイアを囲みながら、語り合う楽しみは、67歳の今でも続けている。女の子をキャンプ地のトイレに案内するのも、楽しみの一つだった。懐中電灯を片手に持ち、片手で女の子の手を握ってあげるのだが、慣れるまでは、手に汗をかいてしまい、困ってしまった。今でも憶えているが、尾瀬沼に行ったとき、トイレの帰り道、歩行用の枝に腰かけて、二人並んで、夜空を眺めた。下級生の女の子に、横光利一の「旅愁」を解説し、チロルの話をしたのは、われながら、上出来だった。希望ヶ丘高校は、勉学の競争ばかりでなく、スポーツや文学や音楽で競い合ったものだ。私は、時間があれば、兄の文学書を借り、読み込んだ。 こんな経験からなのだろう、今でも3日間のキャンプでは、リーダーを務め、3日7食のメニューづくりは、私の役目である。 例えば、一日目の昼食: 食べ物の話で恐縮だが、昭和14、15〔1940〕年ごろの海水浴のお弁当は、梅干し入りのにぎり飯と、たくあんと甘味のたまご焼きが主流だった。肉屋で使っている竹の皮でくるんでいた。本物の竹の皮だから、夏の暑さから、食物を守ってくれたのだろう。昭和22、23〔1948〕年ごろは、淋しい限りだった。イモを蒸して2本持っていった。イモの粉や、モロコシの粉なども工夫して、自家製のパン焼き器を父がつくり、塩パンに仕立てていた。バターも、卵も、ジャムもまだなかったころである。あのころに、インスタント・ラーメンがあったら、どんなにか、喜ばれただろう。 遠足でも、昼食はイモ大会だった。水筒の中も水。私は、腸が弱いので、「湯冷まし」〔水をわかしたもの〕だった。水筒の中が、「番茶」になったり、「ジュース」になったりしたのは、もう昭和25〔1950〕年のころだったと思う。 コンビニなどに出かけると、最近は便利になっているが、食生活について考えさせられる問題もある。「スローフーズ」の時代を強調している仲間もいる。私たちは、いろいろなモノを食べてきたが、本物志向、自然志向だった。孫たちのモノを見るにつけ、改めて、「スローフーズ」を強調したいと思う。 |
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