ヨコハマチャンネル横浜から日本、世界を考える
 
横浜百景〔10〕

山口昭

外交官の家・元町・山下公園

 先日、某週刊誌の取材で、「私の横浜」を編集者、カメラマンとともに、一日歩いて見た。市営地下鉄の終着駅「あざみ野」で待ち合わせをし、駅前のコーヒー・ショップでうち合わせをし、取材先を決定した。

(一)青葉区「山内図書館」
(二) 外交官の家
(三) 元町
(四) 山下公園
(五) 中華街

 (一)の図書館は、私が資料探しなどで、お世話になっており、新刊図書なども買ってもらっているし、また、月に一度、遊びにやってくる孫の智美と将太のために、「紙芝居」を借りたりして、一週間に一度は、出かけている。8月30日(土)が「あざみ野祭」なので、やってくるに違いあるまい。私が引っ越してきた昭和47〔1972〕年ごろは、「ミコシ」や「ダシ」があったが、今は、音楽の演奏や花火大会が中心となって、広場では昔なつかしい「夜店」が展開されている。浴衣姿の子どもたちを見るのが楽しい。残念なことに、お父さんやお母さんの浴衣姿が見られない。

 (二)の外交官の家に行くには、市営地下鉄を桜木町で下車して、JR線に乗り換え、「石川町」で降りる。駅前から急坂を5分歩くと、洋館が現れる。実は、私が大学を卒業して、最初の職場が、この外交官の家そのものであった。この建物は、東京都渋谷区南平台15番地にあった。渋谷駅から歩いて10分ほどの住宅地にあった。近所には、元首相の岸信介さんや、三木武夫さんの自宅がありました。昭和35〔1960〕年のころである。この建物の所有者は、「内田」さんという方で、明治時代に建てられた地上3階の木造建築でした。要所には、ステンドグラスが配され、チーク材が用いられ、天井が高く、古びていたが、それは立派な建物だった。敷地面積は、500坪はあったと思う。設計者は外国人だと思われる。建てた「内田」さんは、どこの国か知らないが、大使だったと聞いている。この建物の中に、約30人の男女が働いていたのである。オーバーな言い方をすれば、「ファッション」「モダンジャズ」「広告クリエイティブ」の発祥の地ともいえるのではないか。ここから育った人材はカメラマンでは立木義浩、高梨豊、デザイナーでは花井幸子、エディターでは堀内誠一などです。「平凡パンチ」「アン・アン」「ブルータス」なども、ここから生まれたのである。この外交官の家の中に、現在喫茶室があるが、ここから眺める横浜市街も、また、結構なものだ。維持が難しくなり、横浜市が買い取り、移築して、現在がある。「私の青春時代」が、この建物の中にビッシリつまっている。

 (三)の元町に転じ、この外交官の家の仲間たちの通い詰めた洋品店「ポピー」に寄った。月給〔初任給1万3千円〕をもらうと、東京から飛んできて、ネクタイや靴下を求めたものだ。「ポピー」の木綿製の黒の靴下をはかないと、いい仕事ができないとホザイタ時代をなつかしく思い、ウインドー・ショッピングで終わった。編集者とカメラマンが忙しく、私の老人姿を撮影していた。

 (四)の山下公園に転じ、ひさしぶりに「海」を見た。公園には花が咲き乱れ、よく整備されていて、カモメの飛来する「海」をしばらく眺めていた。昭和10年代から、昭和20年代、30年代と現在に至るまでの人生の数々が走馬灯のごとく、私の頭の中を走り抜けていった。ホテル「ニュー・グランド」でしばし、休み、紅茶の香りを楽しみ、

 (五)の中華街で遅い昼食をとるべく、歩き始めた。近道すべく、小さな路地を歩くと、古い看板や英文字のプレートが見られ、古き良き時代の横浜が見ることができた。「清風楼」にするか、「海員閣」にするか悩んだが、残念なことに、両方とも満員だったため断念し、桜木町で崎陽軒のシウマイ弁当を求めて、あざみ野の自宅に帰り、冷蔵庫から発泡酒を取り出し、編集者とカメラマンの労をねぎらい、「私の横浜」の取材を終えた。近所のバス停まで見送り、別れた…

 風が冷たかった。「秋」がスタートしたのだろうか。