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03/09/14 【横浜百景一覧】
山口昭「港の見える丘」父が日産自動車を退職して、東横線・妙蓮寺に家を新築したのは昭和31〔1956〕年であった。駅から徒歩8分。丘の上であったので、横浜港が見下ろすことができ、周辺は緑が多く、買い物には、大口通りが便利であった。自宅に風呂があったが、私は好んで銭湯に通った。大学の授業が午前中で終わる時は、急いで帰宅し、一番風呂に通った。浴場内の富士山の看板絵が、なんともいえぬ味を出していて、風呂上がりの一本の牛乳が美味だった。 このころ、2人の兄はサラリーマンであり、日曜日になると、それぞれの恋人が遊びにきて、将来、姉になる予定の2人から、小遣いをせしめて、楽しんでいた。私にとっても、父や母にとっても、一番楽しい時代ではなかったろうか。 大晦日がなかなかのもので、鶴見の総持寺の鐘の音が、丘を隔てて聞こえてくるし、港に停泊している船からは、「ボー」「ボー」と、汽笛が聞こえてくる。窓を開けて、寒気がさし込む中での酒盛りは、なんともいえないものだった。母のつくっている料理を小皿に取り、父を含めて男4人が飲む酒は、朝まで続いた。そんな時、ふと、3人の子どもの名かには1人でも「女の子」がいたら、母が助かるだろうに、と思ったりしたものだ。 私は今でも大晦日になると、この妙蓮寺時代を思い出すために、青葉区あざみ野の丘の上に立って、港の汽笛を聞く習慣になっている。普段は聞こえないが、大晦日の深夜になると、雑音が消え、港の汽笛が聞こえてくるのである。音といっしょにサーチライトが点灯され、冬の空を明るくし、「来年こそは」「今年こそは」という気分になってくる。 妙蓮寺の家の近所に横浜市の盲学校があった。通学してくる学生の中に、いつもヴァヨリンを持っている生徒がいた。彼の練習風景をいつしか楽しむようになった。何年かして、彼の演奏がテレビに映ったときは、驚いてしまった。名前は覚えていないが、名演奏家になっている。彼らの野球や運動会を何度か見学したが、それなりの工夫で肉体的条件をクリアしているのには驚かされたが、彼らも今や、50歳を過ぎ、それぞれの立場で立派な社会人になっていることと思われる。 私が東京・四谷の大学に通うのは、東横線で渋谷経由する場合と横浜経由で東京駅まで行き、中央線で出かけるふたつのルートを使っていた。友人の下宿に泊まったりするケースが多いので、定期を買ってなかった。この時代――麻雀とビリヤードに熱中していたので、帰宅が遅くなり、東横線も横須賀線も湘南電車もなくなると、新橋からJR根岸線に乗り、東神奈川駅で降りて歩いて帰ったものだ。 このころ、東神奈川駅の東口は淋しいもので、遅く帰ると、屋台のおでん屋しかなかった。小遣いが豊かなときは、第一京浜国道を越えて、淋しい倉庫群の中を海に向かって歩いていくと、貨物線路にぶつかった。それをさらに海に向かっていき、もう海だというところに、一軒のバーがあった。私の記憶が正しければ、その名は「スター・ダスト」であった。 店内に入ると、一瞬、ニューヨークのスラム街のバーを思わせる雰囲気になっている。古いジューク・ボックスがあり、その中のレコードがレトロなのだ。バー・カウンターに座ると、窓から海が眺められ、支払いはその都度、キャッシュで精算するシステムであった。若くない2人の女性がサービスらしくないサービスをする。客は外国人が半数くらい。不思議なサロンに、私はたびたび訪れた。慣れたころ、大船駅で求めたサンドウィッチを持っていったのだが、それも食べていいといわれ、女性がカウンターに小さな白い皿と塩を出してくれた。私はそれから、崎陽軒のシウマイやらピーナツやらを持参するようになった。もちろん、店には何種類かのおつまみがあったが、学生ゆえに、許されたのではなかろうか。 社会人になってからも時々、訪れた。最後に訪れたのは、昭和50〔1975〕年のころだったと思う。そのころには、店のおつまみをオーダーするようになっていた。タクシーが通るところではないので、第一京浜国道まで歩かねばならない。早朝の海の香りを感じ取りながら、満足して帰ったのだった。 私にとって青春のバーであり、ロマンのバーであった。今でも、あのバーはあるのだろうか…。 |
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