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横浜百景〔13〕

山口昭

秋桜〔コスモス〕、好きです

 私は、コスモスの花が一番好きだ。理由はないが、私の人生の節目、節目に現れては、消えてゆく不思議な花なのである。

 最初にコスモスと出会ったのは、第二次世界大戦の終戦の年――昭和20〔1945〕年だった。小学三年生の私は、遊びの名人だった。その年の7月ごろから、赤痢〔せきり〕が流行し、親からも、学校からも注意を受けていたが、「川遊び」をした結果、水を少し飲んでしまったのだろう。最初に医者に診てもらったときは、「大腸カタル」と診断されたが、検便したら、赤痢と診断され、隔離入院となった。当時、特効薬なく、両親も、兄たちも、私の「死」を意識したそうだ。

 リヤカーに乗せられ、8月下旬に入院した。

 「戦争が終わったというのに…」

 父のつぶやきがなぜか、耳に残っていた。70%が退院できずに「死」に旅立つ中、不思議に、私は生還した。母の看病の賜物だろう。

 両親と2人の兄に迎えられ、やせ衰えた私は、再びリヤカーの人となった。県道から入った隔離病院からの道の両側で、コスモスの花が歓迎してくれていた。

 それから後は、どんな環境に住んでいても、季節になるとタネをまき、開花を楽しむようになった。切花にしても、長持ちしないが、楽しんでいる。一番心配なのは、台風だ。どんなに支え木をしても、細い枝は弱く、折れてしまう。だからといって、鉢植えにしては、なぜか、風情がない。毎年毎年、季節になると、台風が来ないように念じている。

 コスモスとの2度目の出会いは、社会人になって、日野コンテッサとう乗用車に乗っていた昭和36〔1961〕年のころだった。徹夜仕事が続き、当時住んでいたアパートに帰ってきたのは、午前4時ごろだった。アパートの白い建物を見て安心したのか、ブレーキ操作をミスって、ブロック塀に突っ込んでしまったのだった。気絶したのか、眠ってしまったのか、そのまま朝を迎えた。近所の人に起こされて、車外に出たとき、ブロック塀の先に、きれいなコスモスが咲いていた。病院に行き、検査をしたが、脳に異常はなかった。その代わり、その暮れのボーナスは、ブロック塀の修理で消えてしまった。

 コスモスとの3度目の出会いは、私の会社が倒産した平成9〔1997〕年の8月13日だった。連日、会社に、自宅に、債権者から追われる日々だった。疲れ果て、気力、体力が尽きて、庭を眺めたとき、《私のコスモス》が満開だった。夜見ても、白、ピンク、黄色の各種が風にゆれ、私に力を送ってくれた。

 私は、昭和20年のコスモスを思い浮かべ、強く生きる決心をした。

 倒産から7年、いろいろなことがあったが、毎年毎年、コスモスは、私に勇気を与えてくれている。

   ◇   ◇   ◇

 9月20日は彼岸の入り。

 両親が眠っている東京・向島の寺に行こうと思っている。寺の裏が向島百花園なので、たぶん、コスモスが咲き乱れていることだろう。許可をもらい、一輪のコスモスを墓前に献じようと思っている。いつものように、父には酒を献じたいと思っている。

   ◇   ◇   ◇

 親友の小林君が急死した。旅行中のバスの中で具合が悪くなったそうだ。ゴルフはシングルプレーヤーで、明治大学マンドリンクラブでは、リーダーを務めていた男である。激しい雨の中を厚木市の通夜に向かった。小林君との日々を思い浮かべながら、冥福を祈った。通夜の冷酒を飲み、自宅に帰り、さらにウィスキーを飲んだ。淋しくて、どうにもならない。

 翌朝、重い頭で目覚めた。台風の影響で、風が激しく吹いていた。ふと、見ると、《私のコスモス》が風と闘っているではないか。

 秋桜〔コスモス〕、大好きです。