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03/10/05 【横浜百景一覧】
山口昭パスポート〔T〕パスポートの期限がきた。更新手続きを断念した。つまり、もう海外旅行はするまいと、決心したからである。一つは、体力的な問題と、海外への意欲がなくなったからである。淋しく思うが、致し方あるまい。 30数回に及ぶ海外旅行であったが、家族旅行は、その中で2回のみである。1回は、長男の結婚が決まり、家族のみの旅行をしようと決め、ハワイ旅行を楽しんだ平成8〔1996〕年。それと、長男の結婚式をハワイで行ったので、この2回のみである。そのほかはすべて、業務出張だった。その半数以上がファースト・クラスとビジネス・クラスの旅だったことを考えると、50代の出張が数多いことがわかる。 私たちの学生時代は、海外旅行をする時代ではなかった。初めてパスポートを持ち、海外へ出たのは、昭和36〔1961〕年の韓国出張だった。当然ながら、羽田空港時代であり、家族間でも、会社関係でも、ある種の緊張感があった。1ドルが360円の時代で、ドルの所持も少なかった。今の1ドル110円を考えると、その時代が推察されよう。 外務省の協力で日韓交流を目的とした旅行だった。日本人モデルを帯同してソウルで日本の着物ショーを行い、帰国できなかった在留の人たちに故国の着物ショーを見せるのが目的だった。同時に、終了後には、韓国の美人学生〔当時、モデルはいなかった〕を連れ、東京・大阪で韓国のチマ・チョゴリのショーを展開した。朝鮮日報社の協力があったので、全体的にスムーズに展開したが、時代が時代だったので、実現までには、苦労が多かった。当然ながら、日韓条約締結以前だったので、両国の正式交流がなく、パスポート発給、ビザの発給、荷物の送付、滞在時の安全性など、仕事は多岐に渡った。 考えると、社会人一年生の私によくできたものだと感心する。当時の韓国は戒厳令下にあり、夜の11時過ぎは外出禁止だった。ネオンもなく、ホテルから眺めると、暗黒の世界になったのである。ホテルも、ソウル市で一つしか開業されておらず、明洞〔ミョンドン〕のメトロ・ホテルに滞在した。夏場で、気温は日本では未経験の暑さだった。タクシーがない時代だったため、移動には苦労した。 しかし、ソウル市の空は青く、市民の人柄の明るさには助けられた。焼肉やキムチの知識がなかったので、食生活は苦労の連続だった。土産には、厚木シームレス・ストッキングや資生堂の口紅が喜ばれ、雑誌「世界」や「中央公論」「文芸春秋」が人気だった。もちろん、持ち込み禁止で、あくまで、自分の読書用としての持ち込みになった。それらの本を内緒で、記者にプレゼントした。 PX〔外国人のためのショッピング・センター〕では、ウィスキー・タバコ・石鹸、コーヒーなど、何でも手に入った。当然ながら、すべてアメリカ製品である。すべて、米ドル決済である。日本円はウォン〔韓国通貨〕にチェンジすると、10倍になった。高額紙幣がないので、持ち歩きがたいへんだった。ソウル特別市駅や旧朝鮮銀行の建物が、東京駅や日本銀行とデザインが同一だったことに、驚かされた。学校や神社に行くと、門の文字がセメントで埋め込まれていたが、はっきりと読み取れた。「乃木神社」の文字が、私の心を痛めた。 しかし、韓国側の現地スタッフとの折衝はスムーズに展開した。夜の街での飲酒も盛大にやった。最初は日本酒〔現地では正宗と呼ぶ〕を飲んでいたが、やがてマッカリ〔濁り酒〕に変わっていった。イベントは大成功に終わり、感動のうちに終了した。やがて、両国の国交が始まれば、韓国経済の発展が推進されるだろう、また、そうなってほしいと祈ったものだ。 感激と感動の旅が終わり、金浦〔キンポウ〕空港で多数の人たちの見送りを受け、帰国した。私は、2度と韓国には来るまいと決心した。それは、この旅以上の感動が得られないと、思ったからである。ソウルで覚えた「ノーラン・シャツ」〔黄色いシャツ〕という歌も、心の奥にしまい込んだ。 上空から見るソウル郊外の山々には、緑がなかった。 「秀吉が全部、マキにしてしまった」といった朝鮮日報社の金記者のジョークを思い出し、ひとり笑った。 空は果てしなく、青かった。 |
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