![]() ![]() |
|
03/10/12 【横浜百景一覧】
山口昭パスポート〔U〕二度と訪韓しないと心に決めていた。「私の愛した韓国」の変貌した姿を見たくなかったからである。しかし、仕事となると致し方ない。政治家・権魯甲さんへのインタビューをすることになった。権さんは、金大中政権のナンバーツーの人であり、多忙の人であったが、私のスケジュールに合わせてくれた。40数年ぶりの韓国訪問となった。 羽田空港からの旅立ちも、成田空港に変わり、彼の地の変化も想像できた。出迎えの人がいて、税関もノーチェック。権さんの権力が推し量られた。車に乗って、最初に驚かされたのが、緑豊かになったことだった。40数年の努力が結晶したのだろう。ハイウェイもすばらしく、ソウル南山の新羅ホテルに案内された。 ルームに案内され、カーテンを開いて驚いた。眼下に広がる景色は、「近代都市」に変貌していた。この間の経済努力が、ここに証明されていた。このホテルでは、日本人観光客が少なく、たぶん五つ星ホテルなのだろう。 日本語が達者な権さんとのインタビューは、三時間で終わった。「夜の観光」をことわり、観光客が普段行かれない場所の案内をお願いした。 翌朝出迎えの車に乗ると、大統領府への案内と、38度線最北端への案内であった。いずれも、特殊案内人が待っていて、権さんの権力が示された。昼食は某国会議員宅へ案内され、「和食」が出された。茶菓子まで、和式で統一され、権さんの行き届いた配慮に感激した。午後の38度線への案内は、軍関係者が立ち会い、「南・北分断」の厳しさをまざまざと見せられた。 私は、そんな光景を眺めながら、この国の悲しみを感じないわけには、いかなかった。夜の歓楽街で浮かれ遊ぶ日本人観光客(すべてではない)の姿が思い浮かんだ。それにしても、流れる河を挟んで広がる「北朝鮮」の淋しい風景には、複雑な感慨があった。軍人専用の喫茶店で「茶」をいただき、その地を去った。 平成十三(2001)年3月であった。 その日も空は青く、風は春には遠い寒さであった。 私が韓国を去る日が、外国便が離発着する金港空港の最後の日となった。翌日から仁川国際空港がオープンし、巨大なハブ空港の誕生となるそうである。私の人生の40数年と韓国発展の40数年を考えながら機上の人となった。 その年の10月に権魯甲さんが来日され、ホテル・オークラで出版記念会が開かれた。その招待状の発起人を見て驚かされた。中曽根康弘、扇千景、小沢一郎、加藤紘一、河野 洋平、土井たか子、中野寛成、冬柴鉄三、三塚博の名が連なっていた。 私は、ホテルへ向かうなだらかな坂を歩きながら、昭和三十六(1961)年の日韓友好使節団に始まり、やがて日韓交流が活発化し、日韓条約の締結に至った日々を考えた。 権さんとの再会を喜び、彼の多幸を祈って早めに失礼した。朝鮮半島の統一や日本とのかかわりのことや、日本国の行く先などを考えながら、地下鉄を経て郊外電車で帰宅した。 初めて訪韓した時の金さん朴さん白さん張さんの顔が電車のガラス窓に映しだされた。「山口」〔サンクウ〕と呼ばれて、遊んだ日々が、ついこの間のことのように思われた。金港空港で別れた時にみんながくれた「朝鮮人参〔にんじん〕」が今もそのまま残っている。教えられた通りに焼酎に入れたり、煮出したりして、飲んでみようかしら。「朝鮮人参」が適した年ごろになってきた。 1961年当時、月給は1万5千円であった。韓国行きに際して、会社から海外出張の支度金と出張費が前払いで支給された。それは、月給の3倍も入っていた。私は、その金のほとんどで「山本山」の海苔〔のり〕を求めて、土産として持ち込んだ。結構な量であったが、半分しか使わなかった。それは、韓国では海苔が安価なものであることを知らされたからである。日本では高級品であるが、韓国では貴重品ではないのだ。それは今回の旅で、海苔を買い求めて痛感した。帰国して食べてみた韓国産の海苔は美味だった。若いころの失敗を思い出し、苦笑いせざるを得なかった。 |
||||