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03/10/26 【横浜百景一覧】
山口昭社会人受験勉強から開放されて、大学に入ると、その反動からかよく遊んだ。名曲喫茶で朝から音楽を聴いていた。マージャンやビリヤードも覚え、メキメキ上達していった。夏季・冬季は学友の故郷に出かけた。当時(昭和31年、1956年)、地方に行くと、大学生は歓迎されたものだ。自分の子どもと学友を連れて、父親が料亭などで遊ばせてくれ、お別れの時は交通費までくれた。地方からの遊学生の親は、その地方での有力者が多かった。 そんな楽しい4年間は、猛スピードで終わってしまった。就職のことを考えねばならなかった。海外留学も考えたが、父の年齢を考えると、これ以上の無理は言えぬと断念した。ゼミの担当教授の紹介で、会社訪問を始めた。そんな中に広告業界があった。そのころの広告業界は、新聞・雑誌が中心となっていたが、人材不足で悩んでいた。アメリカの広告業のあり方を聞き、日本の現状を聞き、そのギャップに驚かされた。東京オリンピックを控えて、業界の近代化が急務だと力説され、心が動いた。一冊の洋書が渡され、読んでみなさいと薦められた。 ハンセン教授の「マーケッティング理論」であった。初めて聞く「マーケッティング」という言葉に、何か運命的なものを感じた。広告業界の人たちに聞いてみても、だれしもが知らないと答えた。勉強不足の業界であると、聞かされていたが、驚くべきことであった。一か月かけて読破し、日本の最も遅れているこの業界に入ってみようと決心した。父は技術屋でこの業界がわからず、「大学卒業して、チンドン屋になるのか」と悲しんだが、私は強力に前へ進んだ。 現在のテレビの発展やマスコミの発展を考えると、隔世の感がある。私の2人の息子も現在この業界で働いており、また、私も推薦した。当時の日本企業も、広告課長には、人材を配していなかった。現在は、各企業とも最有力人材を投じている。経営者に、その価値が理解されているからである。 そんな環境の中、「私のアド・マン」生活がスタートした。 最初の仕事は「帝国人造絹絲」(現帝人)の担当であった。当時、本社が大阪にあり、週一度の大阪出張が義務づけられた。日曜日の夜行列車に乗り、早朝大阪駅に着き、駅前のサウナ風呂で洗面し、喫茶店でモーニング・サービスの朝食となる。月給が1万2千円。主張手当の800円がうれしかった。広告課長にご馳走になる「しゃぶしゃぶ」は、まだ東京ではメニューになかった。「うどんすき」も、東京にはなかったメニューであった。親切だったこの課長は、後に副社長まで出世した人だった。山越さんという人だった。 私たちのチーム(アート・ディレクター、コピーライター、カメラマン、デザイナー)は、日本最強のチームを編成していた。三か月の雇用期間が終わり、正式社員になると、月給2万円になった。この給与額は、当時の大卒給与としては、日本で最も高額であったと記憶している。 その当時(昭和35年、1960年)の高額初任給は、繊維会社で帝人、東洋レーヨンであり、これに証券会社が続いていた。広告業界が、単なるスペース・ブローカーから脱皮し、業態が変化し始めていた。外資の飲料メーカー、化粧品メーカー、自動車メーカーなどの戦略展開が刺激となり、東京オリンピックを前後して、企業も広告産業も新聞社、雑誌社、テレビ会社、ラジオ会社も大変化していった。 しかし、マスコミの発展を喜んでいられなくなった。特にテレビの影響が強くなった。テレビによく出る人たちが「タレント議員」になって政治屋になり始めた。テレビの影響は、学生たちの脱活字現象をもたらし、活字文化が失われる悲しい現状となってしまった。テレビのワイドショーは、どのチャンネルを見ても、話題が変わらず、馬鹿馬鹿しくなる。「教育」とは、なんだろうか。 両親の教育、学校教師の教育、企業の上司の教育がなくなってしまった。教育がない政治家・官僚・経済人が「日本丸」をどこに導いていくのか。 「ケジメのない国」から脱皮したいと思うのは、私ばかりではないと思う。 今朝の冷え込みは、冬の到来を思わせる。 |
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